日本軍「慰安婦」制度とは

 


  • 日本軍の軍専用の慰安所は1932年の第一次上海事変時に、海軍が上海に作ったのが資料的には最初です。同年、陸軍は海軍に倣って慰安所を設置しました。それを契機に、慰安所は各地に作られていきますが、1937年に日中全面戦争がはじまったのをきっかけに、日本軍の慰安所設置は拡大展開していきます。慰安所開設に関する軍の資料はいくつか発見されていますが、例えば上海派遣軍参謀長であった飯沼守の日記(1937.12.11)には、「慰安施設の件、方面軍より書類来り実施を取計ふ」とあります。このように、慰安所設置は、日本軍の方針として取り組まれたのです。
  • ■慰安所設置の動機
  • 日本軍が慰安所設置を「緊要」とした理由は、日本軍兵士による地元中国人女性への強かん事件が多発し、抗議の暴動が起きるなど、占領地の統治に支障をきたしたからです*1。つまり、日本軍上層部は、日本兵に専用の慰安所をあてがうことにより強かんを防ごうとしたのです。
    しかし、慰安所を設置した理由はそれだけではありません。強かん対策の他にも、性病の感染予防(性病の蔓延は兵力に甚大な影響を与えるため、軍が統括し、性病検査等、性病罹患を防ぐ手立てを講じられる慰安所は戦略上、必要であった)、士気の鼓舞(戦意高揚)、情報漏えいの防止(民間の売春宿で作戦を口にするなど、敵に機密情報が漏れないようにするため)等の目的がありました。

    *1岡部直三郎大将の日記(1932年3月14日)には、日本軍人による強かんを防止するため、「速 二性的慰安ノ設備ヲ整エ」るよう指示している。
  • ■徴集方法
  • 当初、「慰安婦」は主に国内の遊廓などから日本人女性*1が集められていましたが、戦線拡大(慰安所の設置の拡大)とともに、植民地下朝鮮の女性*2や台湾の女性が甘言(「お金が儲かる仕事がある」「お腹一杯食べられる」)や就業詐欺(工場・看護婦・兵隊さんの身の回りの世話の仕事等)、あるいは強制的な方法*3で連行されるようになり、収容所や占領地の女性たち*4が無理やり連行されたり(路上や家から暴力的に拉致連行)、脅迫(言うことをきかないと家族に危害を加える、等の脅し)の下で「慰安婦」にさせられていきました。

    *1<日本人女性の連行事例>
    ・城田すず子・・・家の借金の形に遊郭に売られ、台湾の慰安所に。その後、サイパンの慰安所に行 った。

    *2<朝鮮人女性の連行事例>
    ・金学順(キム・ハクスン)・・・北京の食堂を出たところで無理やり日本軍にトラックに乗せられた。
    ・李玉善(イ・オクソン)・・・買い物に行く途中で日本人と朝鮮人の男に捕まり、トラックの荷台に押し込ま れた。
    ・姜徳景(カン・ドッキョン)・・・女子勤労挺身隊で富山県の不二越工場へ。逃げ出したところを憲兵に捕 まり連行された。
    ・姜日出(カン・イルチュル)・・・両親の留守中に家に来た日本人の巡査らに連れ出されて慰安所に連行 された。
    ・河床淑(ハ・サンスク)・・・2人の朝鮮人男性に騙され、漢口の積慶里の慰安所に連れて行かれた。
    ・文必ギ(ムン・ピルギ)・・・村の男に「勉強ができてお金が稼げるところがある」と騙された。
    ・宋神道(ソン・シンド)・・・「戦地に行けば、結婚しなくても生きていける」と騙され、慰安所に連れて行か れた。
    ・裵奉奇(ぺ・ポンギ)・・・日本人と朝鮮人の「紹介人」の女に騙されて沖縄に連れていかれた。
    ・朴永心(パク・ヨンシム)・・・日本人の巡査に「お金が儲かる仕事がある」と騙された。
    ・金英淑(キム・ヨンスク)・・・日本人の巡査に騙されて慰安所に連れて行かれた。

    <台湾女性の連行事例>
    ・盧満妹・・・「看護婦の助手などの仕事がある」という言葉に騙されて、海南島の慰安所に連行された。
    ・陳桃・・・学校に行く途中で日本人の警官に捕まり、連行された。
    ・高宝珠・・・役所から招集の通知があり、「日本軍のために働くように」と言われ、行った先が慰安所 だった。
    ・黄阿桃・・・「南洋で、看護婦の助手や炊事の仕事がある」と騙された。
    ・蘇寅嬌・・・「働き口がある」と騙されて海南島の慰安所に連行された。
    ・李淳・・・区役所の仕事の抽選に応募。騙されてフィリピンに連行された。
    ・イアン・アパイ(タロコ族)・・・タキムラ巡査に日本軍の部隊の雑作業をやれと命じられ、その後「慰安 婦」にされた。
    ・イワル・タナハ(タロコ族)・・・派出所の「ツバキ」に日本軍の部隊で雑作業を命じられ、その後「慰安 婦」にされた。
    ・トヨ・カゲ(タイヤル族)・・・警官の「カワハダ」に日本軍の部隊で雑作業を命じられ、その後「慰安婦」 にされた。

    *3<中国人女性の連行事例>
    ・万愛花・・・抗日運動に従事していたため拷問。脱走したが捕まり、3回駐屯地に連行された。
    ・楊時珍・・・河東村に侵入した日本兵に輪かんされ、拉致されて下士官専用の「慰安婦」にさせられた。
    ・高銀娥・・・南社虐殺事件の時に、村人と河東村の日本軍の砲台に連行された。
    ・劉面換・・・日本軍に拉致され、進圭社村の駐屯地に連行された。
    ・侯巧連・・・八路軍の幹部だった父と5人の女性と共に進圭社村の駐屯地に連行された。
    ・郭喜翠・・・八路軍の情報を得るため村に来た日本軍に、寝ていたところを起こされて連行された。
    ・林亜金・・・日本兵に後ろ手に縛られて駐屯地に連行された。
    ・黄有良・・・自宅にやってきた日本兵に強かんされ、駐屯地に連行された。

    <フィリピン人女性の連行事例>
    ・トマサ・サリノグ・・・寝ている自宅に日本兵がきて、抵抗する父の首をはね、引きずり出されて連行さ れた。
    ・マキシマ・レガラ・・・母親と市場に買い物に行く途中で日本兵に捕まり、駐屯地に連行された。
    ・ロシータ・ナシーノ・・・祖母の家に行く途中で日本兵に拉致され、近くの日本軍の駐屯地に連行さ れた。
    ・ヘルテルデス・バリサリサ・・・日章旗を掲げた日本軍の車がやってきて自宅から連れ出され、駐屯地 に連行された。
    ・ビラール・フリアス・・・家を焼かれて学校で暮らしていた時に日本兵が来て、縄で繋がれて連行された。
    ・マリア・ロサ・ルナ・ヘンソン・・・検問で足止めされ、そのまま日本軍の駐屯地に連れて行かれた。
    ・ルシア・ミサ・・・朝食を食べていた時に日本兵が押し入り、両親と姉が惨殺され、連行された。

    <インドネシア人女性の連行事例>
    ・マルディエム・・・バンジャルマシン市長正源寺が募集。「ボルネオで芝居をする」と騙された。
    ・スハナ・・・自宅の前にいたところを6人の日本兵に捕らえられ、慰安所に連行された。

    <マレーシア人女性の連行事例>
    ・ロザリン・ソウ・・・自宅に来た日本兵に幼い2人の子供と引き離され、無理やりトラックで連行された。

    *4<オランダ人女性の連行事例>
    ・ジャン・ラフ・オハーン・・・アンバラワの第六抑留所で日本兵に選別され、慰安所に連行された。
    ・エリー・コリー・ブローグ・・・スマランのハルマヘイラ抑留所で日本兵に選別され、慰安所に連行され た。

    <東ティモール人女性の連行事例>
    ・マルタ・アブ・ベレ・・・地元の男に連れていかれた。断れば両親が殺されると思い、従うしかなかった。
    ・エスメラルダ・ボエ・・・日本兵が村にやってきて、男も女も集められ、私はスアイに連れて行かれた。
    ・エルダ・サルダーニャ・・・夫の死後、日本兵に捕らえられ、ミヤハラ軍曹の相手を強いられた。
    ・マリア・ロザ・フェルナンダ・ノローニャ、ガブリエル・ラランジェイラ、マルガリータ・ホルナイ、リム・ファ・イン・・・「もし拒めば、両親が殺されると言われ、拒絶することができなかった」
  • ■「慰安婦」にさせられた女性(地域)
  • 日本軍の慰安所に入れられた女性は、資料で確認されている地域だけでも、朝鮮・台湾・中国・フィリピン・インドネシア・マレーシア・東ティモール・ベトナム・オランダ・フランス・アメリカ(グアム)・タイ・ビルマ・インド・ユーラシアン(欧亜混血)・日本などがあげられます。
  • ■慰安所での待遇
  • 慰安所に入れられた女性たちは、自由に行動することも逃げることもできず、監禁状態の下で、1日数十人の日本兵の相手を強いられました。抵抗すると殴る・蹴るの暴行を受け、骨折したり重傷を負った女性もいます。また、焼きゴテで焼かれたり、煙草の火を押し付けられた女性もいました。そうした暴行の後は、生涯、女性たちの体から消え去ることはありませんでした。
  • ■慰安所の管理・運営
  • 慰安所には、いくつかの形態がありました。1つは軍直轄*5です。こうした慰安所は軍が「慰安所規定」を作り、管理・運営・性病検査の実施まで、軍が徹底して行っていました。
    2つ目は、民間人に軍専用の慰安所の運営を委託したケースです。この場合、慰安所の管理人は民間人でした。なかには、言葉が通じる朝鮮人に管理をさせていた慰安所もあります。
    3つ目は、民間の売春宿を軍の慰安所に指定していたケースです。このような場合でも、性病検診や監督は徹底させられていました。

    *5 慰安所規定には、「慰安所ノ監督指導ハ軍政監部之ヲ管掌ス」とある。
  • ■おわりに
  • このように、日本軍が設置した慰安所に入れられた女性はやめたくてもやめることができず、逃げたくても逃げることができず、多くの女性たちは敗戦まで日本軍将兵の性奴隷を強いられたのです。また、ほとんどの女性たちは連行地に置き去りにされ、祖国に帰ることなく生涯を連行地で暮らした女性*6も少なくありません。
    戦後、女性たちは慰安所時代の後遺症として、数々の病気に悩まされ、心に受けた傷は深いPTSDとして、女性たちを苦しめ続けました。
    すでに女性たちは高齢になり、多くの女性たちが亡くなり、あるいは病気を抱えています。体力も衰え、以前のように来日して証言する機会はめっきり減りましたが、今も女性たちは尊厳の回復を求めて闘い続けています。

    *6『中国に連行された朝鮮人慰安婦』(三一書房)