裁かれてこなかった女性に対する戦争犯罪、戦時性暴力
「法廷」は、女性を中心にした民衆法廷で、ジェンダーの視点で女性への暴力を裁いたことも特色です。ラッセル法廷では、フランスの女性作家シモーヌ・ド・ボーボワールも裁判官のひとりでしたが、ベトナム女性に対する性暴力、戦争犯罪は取り上げられませんでした。実際、戦場での強かんや性奴隷制などは、戦争につきものとされ、被害者が沈黙を強いられ、世界のどこでも裁かれなかったのです。国際法そのものが、戦時性暴力を被害女性の人権侵害とは見ず、その属する集団、つまり、家族や部族や民族の名誉を傷つける行為と見なしていたからです。- 変えるきっかけを作ったのは、「慰安婦」たち
- こうした戦時性暴力不処罰の流れを変えるきっかけを作ったのは、「慰安婦」たちでした。九十年代初め、アジア各地で「慰安婦」が声をあげたころ、ヨーロッパでは旧ユーゴの内戦で何万人という女性たちが、1993年ウィーンの世界人権会議で出会い、戦争や武力紛争下の女性に対する暴力反対の声を上げたのです。
相次いで設置された旧ユーゴやルワンダの国際戦犯法廷で、強かんや性奴隷制など戦時性暴力の責任者が初めて裁かれるようになり、ルワンダ法廷では、集団強かんの責任者が終身刑を宣告されました。国家の指導者を戦争犯罪や人道への罪で処罰すべきだという国際世論が高まり、常設の国際戦犯法廷としての国際刑事裁判所を作ろうと、そのための規程が1998年にローマ会議で採択されました。
このように、「慰安婦」問題と旧ユーゴやルワンダなど現代の武力紛争下の女性への暴力のつながりが認識され、1997年に東京で開かれた「戦争と女性への暴力」国際会議には、両方の問題に取り組んでいる20カ国40人の民間の女性たちが集まりました。会議では東京裁判で、なぜ「慰安婦」制度が取り上げられなかったのかが問題になり、戦時性暴力不処罰の克服が再発防止に必要だという結論に至りました。
この国際会議の結果、1998年に結成された「戦争と女性への暴力」日本ネットワークは、「女性国際戦犯法廷」を開くことを、1998年4月ソウルでの第5回「慰安婦」問題アジア連帯会議で提案し、被害各国から熱心に支持されました。その直前にジュネーブでの国連人権委員会の期間中に開いたNGOフォーラムで、「女性国際戦犯法廷」構想を発表すると、各国の女性たちから熱烈な賛同を得ました。それで、加害国(日本)、被害国だけでなく、武力紛争下の女性への暴力に取り組む世界中の女性の人権活動家も一緒に「女性国際戦犯法廷」を開く体制ができたのです。
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