「法廷」開催のきっかけ

 


  • 「女性国際戦犯法廷」を開くことになったそもそものきっかけは、1997年に亡くなった韓国人「慰安婦」姜徳景さんが描き遺した「責任者を処罰せよ」という絵でした。その訴えに、加害国日本の女性である私たちはどう応えたら良いのかを考えたのです。姜さんは、二十世紀最大規模の戦時性暴力といわれた「慰安婦」制度のおびただしい数の犠牲者の一人でした。十四歳のときに、日本の軍需工場に送り込まれ、あまりのひもじさに逃げ出そうとして憲兵につかまって強かんされたあげく「慰安婦」にされたのです。「慰安所」で妊娠させられ、戦後に帰国して生んだ子どもは施設で栄養失調で亡くなり、そんな悲しみの中で、姜さんは過去を隠して、つらい歳月を生きたのです。1991年に金学順さんが初めて「慰安婦」であることを名乗り出たことから、姜さんも声をあげました。それ以来、「慰安婦」運動の先頭に立っていましたが、無念の想いを残してこの世を去ったのです。
  • 第二次世界大戦前から戦争中にかけて、
  • 日本軍は、北は中国東北部のシベリア国境地帯から南は太平洋の島々まで、いたるところに「慰安所」を設け、膨大な数のアジアの若い女性や少女を暴力的に、あるいは騙して、「慰安婦」にしました。

    「慰安所」制度は現在国際的に「性奴隷制」と呼ばれるように、彼女たちは奴隷のように残酷な扱いを受けました。戦争が終わると、多くの女性たちは日本軍と死ぬ運命を共にし、あるいは厄介者としてジャングルや戦場に遺棄され、洞窟で撃ち殺されるなど、悲惨な最期でした。やっと故国へ生きて帰れても、姜さんのように、過去をひた隠しにして、貧困と孤独の戦後を生きなければなりませんでした。近年では、高齢になった被害女性たちの悲報があいついで届きます。

    死を目前にした被害女性たちは、「慰安婦」制度がどんな犯罪であったか、責任者はだれだたのかを明らかにして、正義を回復する裁きを切望してきました。被害者のそのような願いに国家が応えないなら、私たち市民が応えるべきだと、「女性国際戦犯法廷」を開くことにしたわけです


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